説教をする

『人に説教するものは

我の行いを棚に上げ

人を見下すからできる事』


【私なりの読み解き】

「人に説教するものは」

思わず、心が痛いです。

この説教というのがとっても難しいところで

相手を思って助言とも考えられますし

自分の考えの押し付けでもあります

文字にしてみれば「教えを説く」と書きますが

教えとは何の教えで、どう説くのでしょう

辞書的には「教え導くために言い聞かせること」と

書いてあります。

説教とはつまり導くための言霊集という事でしょう

今この意味を理解して説教をし

そして受け取り理解している人はどれほどでしょう

一般的に「上司から長々説教を受けた」とか

「私に説教じみた話をしないで」など

どうも本来の意味とは程遠いようです

ここで言われている「説教」とは、この三次元で

常に行われている事柄で、本来の意味とは異なる後者のようです

人は知ったかぶりをしたり、人から得た情報を

あたかも自分の経験したように話をします

高次の方々のおっしゃっている「人に説教」自体が

本来は存在しないのです

私達は経験し、それを乗り越え得た知識を伝えることはできても、

人の行為や意見に対して「良い」「悪い」「こうしろ」「ああしろ」

などという事ではないのです。

後者の説教だと、相手の芽を摘み、可能性をつぶしてしまいます

それもわからず繰り返し人間関係を悪くした上、信頼関係が築けません

伝えてもよく思われず、聞く側も気分を害してしまうのが現状です


「我の行いを棚に上げ」

相手に言って伝えるのであれば

自分自身は常にそれを全うしているのが当たり前です

そうでなければ誰も聞いてくれません

そのことの証明が言っている本人であれば納得もできますが、

高次の方々は真逆と言っています

棚に上げるとは自分の行いにグレーゾーンが多く

私は良いけど、あなたはダメという無茶苦茶な論理です


「人を見下すからできる事」

そもそも、相手の成長や思いを汲み取ることを

無視した行為なのでしょう

人を見下ろす…

高次の方々は常に「共にある」とお考えで

上下など感じ取れないくらい懐が深い思いです

しかし、私達は人より上・下、出来ている・出来ていない

勝った・負けたの基準で図ることが多く、

やはり「個」が大切で、人は人です

しかし、家族・クラス・グループ単位になるといささか難儀です

どんな場合でも調和と柔軟性は大切です

一方的な押し付けは、関係性を壊すだけでなく

人間性を問われます

これはこの世界の話ですが、それでも

守り導いてくださっている方々がいるという事が

ありがたいです




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