『思う様にいかぬは 人と人
思いのままに扱いたく あの手、この手と
すればするほど 己を追い込むぞ
知れ 人は人
お前でない事を 早よう悟れ』
【私なりの解説】
「思う様にいかぬは 人と人」
あたり前の事です。皆さんもそうお思いでしょう。
しかしそれが結構「人は人」と思えず、近ければ近いほど思えないようです。
日々人は相手を自分の思う様に動かしたくて知恵を働かせています。
分かりやすい所では子供に対して…
「こうしなさい」「あーしなさい」「ダメ」「危ない」あげくの果てに「お母さん(お父さん)の言う事を聞きなさい」と。
まったくもって「人は人」でないのです。
と、言う事は相手(子供)をどのように見ているのでしょう。
逆のパターンですと夫婦間に多いようです。
「どうしてあなたの言う事を聞かなくてはならないの?」
「指図しないで」
「分っているわ、何度も言わないで」などなど
する側、される側両方を皆さんは日々体感しているのです。
ここでの「人は人」と言うのは以前からお伝えしている「個である」と言う事と同じでしょう。
相手を1人の人として、人間として尊重すると言う事でしょう。
私達には考えも感情あります。相手も同じです。
ロボットではないのです。
インプットされたプログラムをパーフェクトにこなすロボットにはなれないのです。だから人間なのです。
「思いのままに扱いたく あの手、この手と」
分かっていて、それでも思いのまま操りたいのも人です。
時に「嘘」をついたり、「涙」を流したりと出来る限りの手法で目的を達成しようとします。そうする事によって相手に折れさせたり、思い通りに事を進めたりしているのです。
潜在的にしている事なので、そう言うつもりはないのでしょう。でも結果そうしている事には変わりないでしょう。
だって、結果が思い通りなら「ホッ」とするでしょうし、そうでなければ納まりが付かないのが現実です。
「すればするほど 己を追い込むぞ」
果たしてそれでいいのでしょうか?
相手を思い通りにして自分の思いを貫いて本当に心から、魂から満足するのでしょうか?
「それで良い」と思われるのであればそれはそれで良いのでしょう。
勿論人は人ですから。
解釈と観点の相違もあって当然でしょう。
しかし、高次の方は「己を追い込むぞ」と言われています。
つまり、1つの結果は良かったにせよその積み重ね、または以降の未来的結果を見た時には思う様になっていないのかも知れません。
案外真逆の全く望んでいない結果に結び付いているのかも知れません。
「知れ 人は人」
ここで改めて「知れ」と言っています。
過去そうであった私達であったとしても、今気付けば修正可能と言う事でしょう。有難い事です。
自分⇔子供=人は人
自分⇔相手=人は人
そこには責任が全く発生しないと言うのではなく独立した人間同士である変換です。相手の事情も視野に入れ受け入れ、時に許すと言う事でしょう。
パーフェクトを望む人ほど相手にパーフェクトを求めます。
どんな完璧な人間であっても時折ミスもしますし間違いもあります。
自分もそうであるように相手にも柔軟性を持って対応したいものです。
相手には相手の人生観があり、使命な目的を持っています。
理解して広い心と視野を持ちたいですね。
「お前でない事を 早よう悟れ」
結局結論は「相手は自分でない」と言う事です。
だから自分が正しい事であっても、相手にとってはそうでない事もあります。
また、相手にとっては当たり前である事が、自分にとっては当たり前でないと言う事です。お互い違った物差しを持っているのに比べ合う必要はないのです。
そして、相手の物差しを批判する必要もないのです。
相手の意見を聞きいれそして自分の意見を述べる事が最善でしょう。
感情的になることなく両方がうまくいく方法は必ず存在します。
早く気付いてクリアになりたいものです。
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